相鉄ネタは今が旬!?、元電化の立役者1000&戦後復興期を担った2000、日立での2SHOT~。 | 湘南陽光電しゃ館 鉄道館

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いやいやいや、ビックラしました!!!。

幣館のような弱小マイナーサイトに興味を持たれたと思しき?ウォッチャーの皆様がどっとお出でになりまして、鉄コムでたった一日ながら9位に入っておりました~。

青天の霹靂!?でございます~。ご来館の皆様、ありがとうございますです。

で、そうとは知らずに、今日もチョイと神仏御用を終わらせて、余った時間でネタのサルベージをしておりました。

それで、相鉄ネタもございましたのでUPさせていただきます。

前出の羽沢横浜国大駅に展示してありました、映画セットの解説には、自社発注車は初代5000まで無かった、と自嘲気味に記載されておりますが、どうしてどうして、車体新製などはちゃんと自社発注でなされておりますよ~。

なにより、一昔前まで汽車ポッポにガソがのんびり走るだけだった、小ローカル線が軍命令で一部複線化と電化が、いきなり成された相鉄本線(神中線)ですから、そりゃ電車も自前は間に合わないわけで。

小田原急行(小田急)に東横電鉄(東急)※これらは1000、果てはゲージの違う京浜(京急)からも当時、これら電鉄会社を一束根にしておりました「大東急」は、恐れ多い軍の命令じゃ、電車を供出しろぃっ!てんで、各線※各社から電車を引っこ抜いて送り込みました。

それで、戦後の復興期はそれでも電車が足らなくて、省線63(モハ73)はもとより、戦前のクモハ60/40/モハ30系の元焼け電まで取り込んで、初代5000※ボデーマウント車、が出たあたりまで凌いだんですよね~。

相鉄63はオリジナルとチョイと屋根上のドア水切りが違う、まんま私鉄版63※実はこれも東武がいらん!そんなもん!!と言ってけっぼったお流れ?、ですし、モハ60の焼き直しはもう涙がちょちょぎれるほどデコッパチな、ノーシルノーヘッダーの渋いツートーン塗装が実に似合う異形の60で、クモハ40に至ってはまんま塗装を変えただけ?みたいないで立ちで、これがとってもハンサム。

20M車ひとくくりで初代3000を名乗っておりました。国電ファンの小生にとっては、もう辛抱たまらん車達っす。

で、2000を名乗ったのが省線元30系のクモハ11/クハ16の焼け電集団を、しっかり自社発注!で車体新製して見てくれを統一して再々就役させたグループでしたよね。

 

1980年代撮影 日立電鉄鮎川 クハ2305&モハ1004

流石に小生も1000の現役時代は見てませんけど、2000はまっ黄っ黄に塗られて、荷電代わりで西横浜の側線で昼寝しているところを何度も目撃しております。

晩年、これらの助っ人達が本家の流線型ジーゼルや元兄弟会社の新鋭戦前DC改造車とともに、巡り巡って終の棲家として日立電鉄に集合したのは、当のご本人達にも想像できなかったことではと・・・。

 

追伸:ふと思ったんですが、一昔前なら自社電車の形式が9000までくると、先祖返りして二代目1000/2000を名乗りましたよね?。

真の自社発注車が初代5000ですから、そうなってもおかしくないのに、相鉄さんは10000/20000って行っちゃった。

なんかこう、釈然としないものがあったんですかね、命名の時に。

でも、相鉄さんって、創立時の旧相鉄も神中も、常に新しいもの(車)を取り入れるに躊躇わない新進気鋭の会社だと記憶してますし、そこが大好きな魅力なんですけど。やっぱり、戦中の記憶は忌まわしいものがあったのかなぁ・・・。