前回の国鉄中舞鶴線の廃線跡を訪ねた後、その足で舞鶴若狭道を利用して福井県敦賀市に向かいました。目的地は、北陸本線の北陸トンネルが1962年(昭和37年)に開通するまでの旧線跡(1896年:明治29年に開通)で、今では自動車道路になっています。敦賀駅側から今庄駅側に抜けるルートを訪ねました。

 

最初に訪れた遺構は、対向用の交通信号機が設置されたこのトンネルでした。

 

トンネルポータルの上部に「葉原隧道」のプレートが掲げてあります。

 

と、書き出したものの現在の北陸本線との位置関係が良く判らず、本稿を書くにあたって調べた結果、福井県のホームページに資料として「旧北陸本線トンネル群 位置図」(→こちら)があります。(転載には著作権の許諾が必要なため、リンク先のPDF資料でご覧下さい)

 

現地を良く知っている鉄友さんの案内で、行きついた場所は②葉原トンネルの敦賀方入口(南側)でした。ここから北上して⑩山中トンネルを抜けて今庄駅まで行きます。最も敦賀駅寄りにある①樫曲トンネルに行かずに、いきなり②葉原トンネルに行き着いたのには理由がありました。①樫曲トンネルは歩道になっていて自動車での通過が出来ないことと、日没が迫る中での時間的な制約からでした。

 

話は元に戻って、②葉原トンネル入口を背に振り返った風景をご覧ください。

此処に至るまでに自動車で通って来た道路で、敦賀駅は奥方向になります。登り坂で、鉄道線路の単線道床を道路に転用した風情が感じられます。この時点で既に景色は夕陽で赤く染まり始めています。

 

この②葉原トンネルは979mあり、⑩山中トンネルの1170mに次ぐ長さで、敦賀方入口は左にカーブした登り坂になっています。

 

トンネル内部は、下半分が石積みで、上半分は煉瓦積みのアーチ構造の様です。坑口壁面に緑色のプレート(右下)が嵌め込まれています。

 

嵌め込まれたプレートは、国の「登録有形文化財」(平成28年2月登録)を示すものでした。これらのトンネル群は、21世紀になって近代化遺産として評価され、土木学会の推奨土木遺産にも選定されています。(出典:ウイキペディア「旧北陸線トンネル群」)

 

単線トンネルを転用した道路トンネルですので、対向車とのすれ違いが出来ません。坑口には交通信号機が設置され「待ち時間約5分」の表示があります。信号待ちの間に対向車は来ず、同行者が「登録有形文化財」のプレートをゆっくり眺めていました。

 

動き出してからは道幅が狭く後続車もあって停まることもままならず、更に途中にも待機信号機があるなか、一気に⑩山中トンネルまで抜けました。これらのトンネル区間では同行者が助手席から動画撮影をしており、別途公開してくれるのではないかと思います。⑩山中トンネルを抜けた場所は、既に峠を越えており広いスペースがあって、ようやく停車することができました。

 

⑩山中トンネル(右側)を出た広い場所から振り返ると、左側には別のトンネルが待ち構えていました。

 

通り抜けて来た⑩山中トンネルは、下部からすべて煉瓦積みの構造で、ところどころの煉瓦が抜け落ちています。

 

⑩山中トンネルの内部で、通って来た奥の方向から手前に下り坂になっていますので、既に峠を越えたことが判ります。このトンネルは長い(1170m)ものの、一直線で見透しが利くことから待機信号は設けておらず、「対向車確認」の看板が設置されているだけです。日曜日の夕方だったためか、対向車は此処に至るまで地元の数台と出逢っただけでしたが、生活道路として利用されているそうです。

 

この広場には、「山中スイッチバック」の看板が掲げてありました。この写真は、DF50牽引の上り貨物列車が今庄方から登ってきたところで、更に進んで先程の坑口写真で左側に見えた新たなトンネルに突入します。左側には敦賀方から峠を越えて来たD51牽引の下り列車が、上り対向列車の到着を待機をしています。渡り線箇所に設けられていた写真の降雪覆いは現存していませんが、山中信号所があった場所です。

 

【山中信号所の参考図(数100m先にある看板からトリミングして転載)】 「山中スイッチバック」の看板にあるDF50の写真は、B付近から右方向(渡り線箇所)を撮影されています。

 

DF50が進行しようとする左側の新たなトンネルを見学してきました。

 

奥行きは僅かに30m位で行止りになっており、スイッチバックの折り返し線でした。何か痕跡がないか調査中!

 

行止り直前の頭上には、排煙口が残っていました。

 

この場所から道路を数100m下っていくと、再び広い場所に出たので止りました。

振り返ると、正面奥の左手に先程の⑩山中トンネルと行き止まりのトンネルがあります。

 

山中信号所の待避線跡地の看板がある広場です。

 

先程の山中スイッチバックの信号所跡と判明しました。

 

「当時の北陸線であった敦賀~今庄間は、・・・山中信号所まで前後14kmにわたって千分の二十五の上り勾配が連続し、しかも曲折が激しかった。」との書き出しで、スイッチバックの説明が丁寧になされています。

 

隣り合わせにある看板にも当時の写真入りで説明がなされています。これらの看板は、貨物列車の蒸気機関車から煙が立ち上がっている付近に設置されています。

 

看板の写真とは逆方向を見ています。左側がスイッチバックの待避線跡(二線分)、右側が今庄に下って行く本線跡(単線)です。

 

左側の待避線の先端には黒っぽい構造物が見えますが、その右側の本線上にある四角形の構造物が山中ロックシェドと呼ばれるプレスコンクリート造の落石防護の覆いで、昭和期の建設であるが国内で最初期のものとのことです。(出典:ウイキペディア「旧北陸線トンネル群」)

 

急勾配の本線跡を下ると集落の中に「大桐駅跡」が現れました。

 

大桐駅は2面2線の待避可能駅だったようです。

 

ホーム跡には、先従輪・動輪・転轍テコと説明看板が設置されています。

 

看板には、現存するのは上り線ホーム跡で、同区間で活躍したD51の動輪をモニュメントとして設置していることが述べられています。

 

大桐駅のホーム跡と共に、今庄方向を望む。

 

旧線跡を更に進むと、南今庄駅手前で旧線は北陸トンネルを抜けて来た現行の北陸本線に合流して、次の今庄駅に至ります。

今庄駅に到着した時には、日も落ちてすっかり暗くなっていました。此処にも動輪が飾ってあります。

 

今庄駅構内には、当時の煉瓦積み給水塔とその右側に給炭台が残されています。

 

給炭台の前には、ピカピカのラッセルヘッドを装着したモーターが間もなくの出番を控えて留置されていました。

 

今庄駅構内には、ラッセルモーターカーがもう1両留置されていました。

 

この後は、更に北にある⑫湯尾トンネルには向かわず、反転して北陸自動車道を滋賀方面にひた走り、最後の目的地である柳ケ瀬トンネル(北陸線跡)に向かいました。到着した時には漆黒の世界となっており、柳ケ瀬トンネルを通り抜けるだけが精一杯で、写真撮影の機会は改めることにして帰途に就きました。全道中を運転して案内して下さった鉄友さんに心より感謝いたします。

 

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