民鉄の覇者 東京急行電鉄 14、学校招いて電車儲かる | 犬と楽器と鉄道模型

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さて、慶應誘致の為に、五島は地主達を一軒一軒訪ねては交渉したが、地主の方でも相場は知っている。
皆、一様に坪7円5厘を主張して全く譲らない。
 
致し方無く、五島自ら三田に出向いた。
「無償分と合わせて12万坪が36万円と考えれば安い買い物である」
と交渉に臨んだが、慶應は納得しない。
 
日吉への移転を撤回する様な素振りさえ見せ、交渉は行き詰まった。
追い討ちをかける様に悪い情報が五島の元に届いた。
 
小田原急行鉄道と箱根土地(現、コクド)が突然慶應誘致に名乗りを上げたと・・・
新宿〜小田原間を既に開通させていた小田原急行鉄道は、相模原に10万坪の土地を慶應に提供すると申し出たのである。
 
箱根土地は東京国立に東京商科大学(現、一橋大学)を誘致する事に成功していた実績もあった。
慶應の内部でもこの小田原急行鉄道の申し出に乗りかえを進める者も出て来た。
 
「今、ここで、慶應を日吉に引っ張っる事が出来なければ東横線の未来は無い。
ならば・・・慶應誘致に賭ける以外に道は残されていない」

そう考えた五島は慶應の条件の丸呑みを決断した。
 
残りの土地の坪単価は7円とする。
但し、予算超過分は東京横浜電鉄が負担する。
学生・教職員の電車賃については別途、協定に依るものとする。
 
 
要は、追加の土地、4万8千坪の単価が7円5厘だろうが、7円としようが、慶應は坪5円と言っているので、一坪毎に東京横浜電鉄が2円5厘負担すると言うものだ。
結局、54万円+12万円、都合66万円の負担となる。
 
学生・教職員の電車賃に関しては割引制度の定期券。
(しかしこれは後に東京横浜電鉄にとって助かる事になるのである)
 
この破格の条件の妥協には東京横浜電鉄の会社幹部も反対した者も少なくなかったが、五島はこの反対意見を強引に押し切った。
もう、後がない五島は、何が何でも東横線の学校誘致は、最初から躓く訳にはいかなかったのである。
 
1929(昭和4)年、慶應は日吉への移転を決定する。
大損覚悟所ではない。
風前の灯であった東京横浜電鉄だったが、最後にはこの賭けも大吉と出た。
慶應義塾が正式に日吉への移転を決定すると、分譲宅地も売れ始め、東横線の地価はウナギ登りに高騰していった。
 
五島はこれ以後に、次々と沿線に学校を誘致していった。

1930(昭和5)年には10万円の土地を寄付し、目黒区柿の木坂に東京府立高等学校(現、都立大学)。
1931(昭和6)年には川崎市新丸子にも10万円の土地を寄付し、日本医科大学。
1932(昭和7)年には現在の東京世田谷区下馬には5万円の土地を寄付し、青山師範学校(現、東京学芸大学)。
1935(昭和10)年には川崎市木月に法政大学予科(現、法政二高)。
等、約70校を東横線、目蒲線、大井町線等の沿線に誘致した。
 
1932(昭和7)年に東横線が渋谷〜桜木町で全線開通した事もあり、東京横浜・目黒蒲田電鉄各線は学生で溢れた。
 
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全線開通後には一日の東横線利用者数は6万3千人と倍増。

「学校招いて電車儲かる」との格言が生まれた程であった。
 
後に五島はこう述懐する。
「振り返って私は、この事を最も誇りとしている。
交通業者という者は、多く手っ取り早く安直に考えて、先ず三業組合とか料理屋、あるいは芸者組合等の花柳界を誘致したがるものである。
 
私は、こうしたものには全く関心を持たず、学校の誘致に力を入れた。
小林一三氏からは色々の知恵や指針を受けた。
しかし、学校誘致だけは私自身の発案であり、些か自慢の出来る事だと思っている」

そう言えば、東横線に乗車すると乗客がどことなく品が良い様にも感じられる。
 
一方、目黒蒲田電鉄は更に新線を建設していた。
昭和2年、大井町~大岡山間を開通させる。
昭和4年には大岡山~玉川停留所間(現、二子玉川)へと大井町線を延長して完成させ、順調に事業を拡大していた。
尤も、こちらも五島が陣頭指揮をしていたのであるが・・・
 
(次回は東横百貨店計画です)
 
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この記事は2014-03-19
yahooブログにて掲載していました。