以前、隅田川沿いの蔵前にあった東京高等工業学校(現、東京工業大学)は、大学昇格を狙って移転先を探していたが、関東大震災で全ての校舎を失い、それを機に移転する事になった。
その情報を入手した五島は、田園都市会社が分譲していた目蒲線大岡山に売れ残っていた9万2千坪の分譲地を誘致する。
多少の擦った揉んだの悶着はあったものの、蔵前1万2千坪の土地と交換とする事で、東京高等工業学校は移転を決定する。
1924(大正13)年に同校は大岡山に移転した。
それに伴い、目蒲線沿線の人口も増え、乗降客も増えた。
それに伴い、目蒲線沿線の人口も増え、乗降客も増えた。
五島はこの事も思い出した。
「そうだ!俺は元々教師の職業だったではないか。
学校だ!
学校だ!
学校ともなれば一校でも教師と生徒で数百人は居るぞ!
それらの人々が電車に乗ってくれれば東横線は人で溢れる。
それらの人々が電車に乗ってくれれば東横線は人で溢れる。
生徒や家族が越して来る場合、通学は電車に乗ってはもらえないが、通勤や出かける時には乗ってもらえるだろう。
その上、沿線の土地も売れるではないか!
東京高等工業学校の時もそうだった。
よし、学校を誘致しよう!」
五島はそう決心する。
どうすればお客が電車に乗ってもらえるか、東横線の生みの親、五島が悩みに悩んだ末に頭に閃いたアイデア、それは沿線に学校を誘致する事だった。
田園都市会社と東京横浜電鉄は、東横線の開通を見越して大正末期から既に、今の川崎市新丸子地区、横浜市日吉台地区の土地の買収を進めていた。
特に日吉は第二の田園調布にしようと、駅前の区割りを似せた造り様であった。
だから、「日吉は目黒駅より25分、神奈川駅より20分、蒲田駅より20分」と、便利さを宣伝したが・・・当時は東横線が走っている他には何も無いのである。
日吉を発展させようとしていた五島は、並々ならぬ意気込みを持っていた。
当然ながら、案内されても買う人は南無に等しかった。
丁度その折、三田の慶應義塾大学が校舎の一部移転を考えていると言う話が五島の耳に入った。
大学の評議員会では、移転先として東京府下高井戸と横浜市を挙げていた。
大学の評議員会では、移転先として東京府下高井戸と横浜市を挙げていた。
【1912年(明治45年)5月の慶應義塾大学。 Wikipediaより】
「これは重畳極まりない朗報だ!
絶対に慶應義塾を東横線に引っ張ってやる」
絶対に慶應義塾を東横線に引っ張ってやる」
丁度、五島の師である小林は慶應OBであった。
早速、小林に頭を下げ、学校移転の交渉をお願いする。
早速、小林に頭を下げ、学校移転の交渉をお願いする。
土産として、慶應に日吉台の土地7万2千坪を無償で提供すると申し出た。
単純計算で総額54万円分の負担となる。
しかも、当時は日吉における帳簿価格は94万5千円もあった。
更に当時、東横線の年間運賃収入は51万円しかない。
これは利益でなく収入である。
これが実現しても、東京横浜電鉄は大打撃を喰らうのは覚悟の上であった。
しかも、当時は日吉における帳簿価格は94万5千円もあった。
更に当時、東横線の年間運賃収入は51万円しかない。
これは利益でなく収入である。
これが実現しても、東京横浜電鉄は大打撃を喰らうのは覚悟の上であった。
暫らくすると、小林から朗報がもたらされたのであるが・・・
「東京横浜電鉄の破格の申し出に慶應は日吉台への移転に大きく傾いた。
評議員会は、あと必要な土地4万8千坪を坪5円以下で東京横浜電鉄が斡旋してくれるのならば、移転を正式決定する」
「東京横浜電鉄の破格の申し出に慶應は日吉台への移転に大きく傾いた。
評議員会は、あと必要な土地4万8千坪を坪5円以下で東京横浜電鉄が斡旋してくれるのならば、移転を正式決定する」
との事であった。
五島は朗報ながら困惑せざるを得なかった。
何故か?日吉台周辺は坪7円5厘が相場だったからである。
何故か?日吉台周辺は坪7円5厘が相場だったからである。
(次回は学校招いて電車儲かるです)
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この記事は2014-03-12
yahooブログにて掲載していました。