矢作橋のこと - 『やはぎ』っていうほんから

2019.9.30 『やはぎ』 (1) 表紙 1350-820

矢作(やはぎ)の歴史をべんきょうちゅう。2019年9月30日、岡崎市立図書館りぶらで『やはぎ』っていうほんを発見。矢作橋についての記述のとことかがおもしろく、みなさんにも紹介しとく。

◇            ◇

2019.9.30 『やはぎ』 (2) 矢作のしおり 1560-1500
矢作のしおり
本町の位置地勢
矢作町は碧海郡の東端にくらいし、ひがしは矢作川の清流をへだてて額田郡とあいたいし、みなみにまわりて六ツ美村ならびにかわにしなる桜井村に接し、にしはあんじょうちょうに接し、北方は上郷村にさかいす。
地勢は矢作川の沿岸なるをもって、おおむね平坦にして肥沃の地おおく、わずかに西北の一部のみやや高燥(こうそう)*1なり。
本町の由来
明治維新前后には矢作ほか35か村なりしが、1889年10月、町村廃合おこなわれ、矢作、長瀬、志貴、本郷、志賀須香、中郷の6か町村となりしが、くだって1906年4月にいたり、合併して現今の矢作町を組織す。

さいしょに矢作町(やはぎちょう)の位置地勢と由来がかいてある。碧海郡(へっかいぐん)の東端に位置するってとこがかんじんだ。岡崎の中心部が額田郡(ぬかたぐん)に属するために、つい矢作も額田郡っておもいがちだけど、じつは、わがあんじょうとおんなじ碧海郡に属する。

1906年、周辺地域を合併して矢作町が発足。しらべると、おんなじとしにわがあんじょうちょうも発足しとる。

2019.9.30 『やはぎ』 (3) 矢作橋 1520-1440
名勝
矢作橋
古来東海第一とし、そのな天下にあまねし。天文年中(1532年から1555年)、秀吉の幼児、このはしのうえにふし、蜂須賀小六にあいしはなしは人口にかいしゃする*2ところなり。徳川時代にいたりては、ことに保護をくわえ橋料1万石をあつ。じつに208間の大橋は虹霓(こうげい)*3のごとくかけわたされ、その材はすべてひのきをもちいらる。このはしのなは旧記に散見せらるれども、その越原*4あきらかならず。人皇34代推古天皇の御宇(ぎょう)*5百済帰化人をして三河八脛(みかわやはぎ)の長橋をかけしむとあり、平家物語の印本に十郎蔵人源行家(みなもとのゆきいえ)矢作川の板橋にてたてをつくりまちうけたりとあり、また、林羅山先生丙申紀行(1656年)に「近年このはしは板橋となり、いまは官州国の諸侯に命じ巨万の財を散じ、海内(かいだい)*6の良材をつのり良工をあつめて造営しあれば、その壮麗にほん第一にして行人(こうじん)*7旅客のみるもの歎賞せざるはなし」うんぬんあり。
このはしについて往時土橋にしてそのながさ75間ともつたえしが、1634年、徳川家光公ご上洛の際、新規に板橋のご造営ありて208間、擬宝珠(ぎぼし)つきとなる。これ板橋の濫觴(らんしょう)*8にして爾后(じご)公儀普請となりて明治におよぶ。

名勝のいのいちばんに矢作橋。かきだしから古来東海第一って、かなりきあいのはいった記述だ。蜂須賀小六木下藤吉郎のであいの舞台になったことももちろんかいてある。はじめてしったことだけど、推古天皇のときに百済帰化人にはしをかけさせたって、すごいことだ。大化の改新よりちょっとまえの女帝だ。矢作橋ってどんなにふるい歴史があるだ。

近世の矢作橋は1634年からはじまるらしい。ほれまでの土橋から板橋にかわっただ。いや、土橋ってのがどんなもんかわからんだけど、とにかくりっぱなはしにかわった。林羅山のほんにも「巨万のかねをかけて、良材、良工で造営したもんで、ほの壮麗なことはにほんいちで、たびびとでこれをほめんひとはない」ってかいてある。矢作のひとが矢作橋をいかにほこりにしとるかがわかる。

2019.9.30 『やはぎ』 (4) 矢作橋 1560-1500
初度 - 1634年 - 普請奉行戸田能登
(1670年8月、明大寺村出火の際延焼す)
2度め - 1674年 - 奉行松平市右衛門
(ながさ56間、りょうそでともにはば4間、中央に莒番所*9あり)
3度め - 1715年 - 奉行向井兵庫ほか1人
4度め - 1746年 - 奉行細井飛弾守
5度め - 1762年 - 奉行山名伊豆守
6度め - 1781年 - 奉行室賀山城守
7度め - 1789年 - 奉行三上因幡
8度め - 1817年 - 奉行村垣淡路守
9度め - 1838年3月 - 奉行梶野土佐守
10度め - 1877年1月 - 愛知県知事安場保和
(その以前はかりばしまたは渡船なりき、こんかい国庫費にて架設せられながさ150間はば3間あり)
11度め - 1890年8月 - 愛知県知事岩村高俊
12度め - 1913年9月 - 愛知県知事松井茂
(鉄橋プラット式ロートラッス、ながさ150間5尺、はば3間半)
(総工費7万3千8百余円県費支弁)

近世の矢作橋のかけかえの歴史。1634年からこのほんがかかれたときまでに12回築造しとる。

◇            ◇

(さんこう)

*1:土地がたかく湿気がすくないこと

*2:ひとびとの話題にのぼってもてはやされ、ひろくしれわたる

*3:にじ

*4:意味不明

*5:帝王のおさめるみよ

*6:国内

*7:たびびと

*8:はじまり

*9:莒の意味は不明