民鉄の覇者 東京急行電鉄 10、東横線建設 | 犬と楽器と鉄道模型

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ようやく経済も上向きになり、何とか東横線建設の資金も集める事が出来た。
しかし、建設に先立って目黒蒲田電鉄よりイチャモンが付いた。
 
「先に渋谷~丸子多摩川間が開通すると目黒蒲田電鉄の乗客が奪われる」
と言う事で、渋谷~丸子多摩川間は後回しとなる。

五島は、以前に目黒蒲田電鉄の大株主である服部金太郎(現、セイコー)に、
「渋谷線を先に建設されては、目蒲電鉄と競争になって困る。
それより差当り田園調布から横浜に至る線を建設してもらいたい」
と言われていた。
 

 

服部金太郎 1860-1934。 Wikipediaより】

 

更に、武蔵電鉄時代には矢野からも、
「武蔵電気鉄道は、渋谷から桜木町までを計画している鉄道であるが、田園調布と横浜の間を先に造ってくれ。
即ち多摩川の橋を架けて横浜を先にやる。
渋谷は並行線だから後にしてくれ」
と念を押されていたのであった。
 
実は五島は、渋谷側から建設したかったのだ。
理由は後の事。
しかし、これだけ方々から念を押されたのでは、その通りに建設するしかなかったのである。
 
1925(大正14)年、いよいよ待ちに待った丸子多摩川~神奈川(現、東横線反町駅と横浜駅の間)の工事が始まった。
 
東横線建設に対し五島は、
「常にトップが姿勢を正さなければ駄目だ」
と考えていた。
 
目蒲線での建設で経験した五島は、ほとんど毎日、工事現場に訪れては作業員達に激励や、慰労をして廻った。
自らシャベルやツルハシを握る事も度々であった。
 
されど、丸子多摩川〜神奈川間の建設は、東京横浜電鉄にとって非常に困難な工事が待ち受けていた。
建設費のかさむ建造物が、この区間には多く必要となるからである。

建設初っ端から多摩川を大鉄橋で作らなければならなかった。
鶴見川も然りである。
土地柄、起伏が多いのも悩みの問題であった。
 
しかも、神奈川付近はトンネル等の難物や殆どの区間も高架にしなければならなかった為、当時で工事費がキロ当たり40万円と言うべらぼうに高いものとなった。
五島は自ら更に頭を下げて債権者を廻り、資金調達して建設費にあてた。
 
又、神奈川駅手前の高島山のトンネル工事中に起こった事故も、自ら泥水を被りながら復旧作業の先頭に立ち、陣頭指揮をする事で資金や災害等の困難な直面にも五島の口癖である、「なあに、これくらい」の精神で粉砕していったのである。
 
翌年の大正15年2月14日。
部分的だが東京横浜電鉄は、ようやく丸子多摩川~神奈川間を開業する。
そして昭和2年8月には渋谷~丸子多摩川間も開業。

ついに・・・遂に、念願の「東横線」が誕生した。
 
その間、先の関東大震災の結果、東京の住宅地が旧市街地から西の郊外に拡大すると言う好条件があり、目黒蒲田電鉄の運営は順調な軌道に乗っていた。
しかし・・・肝心の東京横浜電鉄はさっぱりであった。
 
東京市だけを通る目蒲線沿線とは違い、東横線沿線は多摩川を渡ると神奈川県で当時は未だ未だ未開の地だったからである。
 
 
 
(次回は自殺をするか・・・です)
 
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この記事は2014-02-19
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