きょねんのはなしになる。つまとふたり岡崎東公園にもみじをみにいって、ついでに公園いりぐちひだりがわにある旧本多忠次邸をみてきた。
◇ ◇
巨大な洋館。イスパニア風だ。
たてもんのひだりにまわりこんで、にしむきについとる玄関をはいっていく。玄関もしっかりイスパニア風だ。たてもんのなかは、嘱託員の中野敬子さんがていねいに説明してくれる。
応接室にはいる。つくえやソファーなんかの重厚な調度品。シャンデリアのある天井。しろいレースのかかったたてながのまど。いや~、子爵気分だ。本多忠次のちちおやは子爵だった。
円筒がたのへやにはいって、そとをみる。たてながのまどがよこに連続して、180度の視界がたのしめる。
なか廊下をへだてたきたがわ、いちばんひがしがわに浴室。いりぐちにしろいアーチ。おくのアーチまどにステンドグラス。これもイスパニア風か。
ステンドグラスのあるしゃれた階段をあがって2階へ。
寝室。まくらもとのほう、ふたつの寝台のあいだにスタンド。はだかの人形を支柱にして、シャンデリアっぽいおおいがかぶせてあるっていう、かわったスタンドだ。
2階にも円筒がたのへや。
そとにでた、まあいっかい外観をみる。1階テラスのアーチもイスパニア風だ。
たてもんのみぎがわに円筒がくっつけてあるのがおもしろい。1階、2階にそれぞれあった円筒がたのへやだ。
庭園もしっかりイスパニア風。
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ところで、このたてもんはもともと東京にあったたてもんだ。岡崎ゆかりのひとの邸宅だったってことで、ここにうつされた。本多忠次は、岡崎藩さいごの藩主本多忠直のまごにあたる。忠直のあとつぎが忠敬(ただあつ)で、ほの忠敬の次男が忠次になる。いや~、藩主の末裔(まつえい)って明治維新でおちぶれたわけでもなんでもないだ。忠敬は子爵のくらいをあたえられて貴族院議員になっとるし、忠次は東京帝国大学をでてこんなりっぱな邸宅をたてとるし。
(さんこう)
- 本多忠次と旧本田忠次邸の説明がき - おぼえがき(ゆめてつどう)|2019/09/14
- あんじょう防災ネット - あきひこのいいたいほうだい|2019/09/14
- 岡崎城の篭田総門のあとをみてきた - 2019年8月31日 - あきひこゆめてつどう|2019/08/31
- きょう2019年8月31日、岡崎城の篭田総門のあとをみてきた。発掘調査現地説明会にでむいて、きいてきただ。岡崎のまちのなりたちについての重大なはなしもきくこともできて、たいへんに有意義だった。現地までののりもん道中のようすもふくめて、以下に紹介する。
- いやいや、おどろいた。岡崎城下って徳川家康の時代からあるっておもっとっただけど、ほじゃないだ。家康が関東に転封(てんぽう)になって、ほのあと岡崎城主になった田中吉政っていう人物がつくったもんなだ。しかも豊臣系の武将だっていう。岡崎って家康のまち、徳川のまちっておもいこんどったけど、まちがいだったみたいだ。ぜんぜんなまえのしられとらん田中吉政だけど、まっと有名になっていいじゃないか。
- 2018年度岡崎市旧本多忠次邸展示委員会議事録|2019年2月5日
- 開催日時:2019年2月5日(火)午后2時00分~午后3時50分
- 開催場所:岡崎市役所東庁舎6階601号室
- 出席委員:5名(全員)
- 内田青蔵委員(委員長)・中野裕子委員・内田尚之委員・新海真ニ委員・堀江登志実委員
- 説明のために出席した事務局職員:4名
- 社会教育課:小野鋼二教育部次長兼社会教育課長兼旧本多忠次邸館長、柴田英代社会教育課副課長(主幹)兼旧本多忠次邸館長補佐、小林巧社会教育課事務員
- 旧本多忠次邸:中野敬子嘱託員
- 傍聴者:なし
- 子爵に…|いわせあきひこ|フェースブック|2018年11月25日13:41
- 岡崎藩主①(岡崎散歩 - 徳川将軍15代):きままに江戸♪ - 散歩・あじ・読書の記録|2012-05-10 08:47
- 今日は、岡崎藩の藩主について説明します。
- 徳川家康が関東に移封された后に、田中吉政は5万石で岡崎城主となりました。
- 田中吉政は、豊臣秀次の筆頭家老も務めていましたが、隣の尾張国には豊臣秀次が入りました。
- 豊臣秀次が罰せられた際にも連座することなく、逆に加増され、最終的に10万石の大名となりました。
- 吉政は岡崎城の造営、田中掘を築造、城下町の整備などを行いました。
- さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎の城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備しました。こうして近世岡崎の原型を造りました。
- 関ヶ原の戦い后、田中吉政は筑后32万5千石で柳川城に移りました。
- この后に、1602年に徳川氏譜代の重臣本多康重が上野国白井藩より5万石で岡崎城主となりました。これが、岡崎藩の立藩となります。
- 本多家は、いろいろな系統があります。最も有名なのが本多忠勝の系統でしょう。徳川幕府初期には、本多正信・正純の系統も大変力をもっていました。また、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の日本一短い手紙で有名な本多重次【別名:鬼作左】の系統もあります。
- 岡崎藩の初代藩主となった本多康重は、前述の系統とは異なる本多家で、広孝系本多家などと呼ばれます。
- 本多康重は、本多広孝の長男です。
- 父広孝は家康に仕え東三河攻略に活躍し田原城を拝領しました。
- 康重は、1562年、元服し主君の徳川家康から片諱を与えられました。
- 1569年、掛城攻めにて初陣を果たし、1577年、家督を継ぎました。
- 小田原征伐后に家康が関東に移封された際に、上野国白井城2万石を与えられました。
- そして、関ヶ原の戦い后の1601年に加増され三河岡崎藩5万石を拝領しました。
- 1611年死去し、后を長男康紀が継ぎました。
- 第2代藩主康紀は康重の嫡男として田原で生まれ、家康から諱をもらい康紀と名乗りました。
- 康紀の時代に、岡崎城の天守が築かれています。
- 第3代藩主は、忠利で、秀忠から諱をもらっています。
- 1634年、家光が上洛する際に饗応し5,000石の加増を受けました。
- 第4代藩主は利長で、1645年、利長は家督を継いで1か月あまりで遠江国横須賀藩5万石へ移封されました。
- 本多家の后には、三河吉田藩から水野忠善が5万石で入りました。
- 水野家は、家康の母於大の方の実家です。
- 水野家も本多家と同様に多くの大名を輩出しています。
- 岡崎藩の藩主となった水野家は、於大の方の弟水野忠守を初代とする家柄で、忠守の子忠元が常陸国山川で3万5千石を拝領し大名となりました。この系統が水野家宗家を称していたそうです。
- 水野忠善は、忠元の嫡子にあたります。
- 忠善は、譜代大名としての意識が強く、かねてから岡崎への転封を希望していたそうです。
- 滝山東照宮には、水野忠善が奉納した鳥居が残っています(左上の写真)。
- この后、第2代藩主の野忠春は奏者番・寺社奉行に任じられています。
- 忠春の子忠盈( ただみつ)が3代となりますが、子供がなく弟の忠之が第4代藩主となります。
- 忠之が藩主の時に、赤穂事件が起こり、赤穂浪士9名を江戸三田屋敷に預かっています。
- JR田町駅の駅前の慶応大学に向かう路地に、「水野監物邸跡」について港区教育委員会が建てた説明板があります(右写真)。
- 忠之は老中となり8代将軍吉宗の際に筆頭老中として享保の改革にも取り組んでいます。
- 第5代藩主は忠輝です。
- 第6代藩主忠辰は、祖父忠之から聞かされていた吉宗の改革にならい藩政刷新を目指しました。
- 忠辰は、改革に抵抗する保守派家老を隠居させて藩政改革に取り組みますが、保守的な上士層の政務ボイコットも起こったことから、保守派に妥協し改革は失敗します。
- 忠辰は保守派によって江戸屋敷の座敷牢に押込られ、失意のうちに29歳でなくなりました。
- 第7代藩主忠任の時、1762年に肥前国唐津藩6万石へ加増移封されました。
- なお、この水野家から、天保の改革を実施した水野忠邦が出ています。
- 水野家の后、松井松平家が入り、その后に本多忠勝の系統の本多家が入り岡崎藩は明治の版籍奉還まで本多家が藩主として続きました。
- それについては、明日書きます。
- 旧本多忠次邸施設概要|岡崎市ホームページ
- Q.岡崎藩の藩主はどのようにかわりましたか|岡崎市ホームページ
- 幕藩制度が敷かれてからは、岡崎藩主には幕府の要職に就く譜代大名が封じられました。1601年に上州白井から本多豊后守康重が移封され、本多氏が1645年までの44年間岡崎藩主として岡崎藩を治め、1645年より三河吉田から水野堅物忠善が移封され、水野氏が1762年までの118年間治めました。同1762年に下総古河から松平康福が移封されてきましたが、1769年まで治めたのみで、石見国浜田から本多中務大輔忠粛が移封され同1769年から明治の廃藩置県まで治めます。
- 本多家(ほんだけ)[前本多家]
- 本多康重(やすしげ)1601年5万石
- 本多康紀(やすのり)、1611年、5万石
- 本多忠利(ただとし)、1623年、5万5千石(5千石加増)
- 本多利長(としなが)、1645年、5万5千石(遠江横須賀藩へ移封)
- 水野家(みずのけ)
- 松平家(まつだいらけ)
- 本多家(ほんだけ)[后本多家](本多忠勝の系統)
*1:5万4百石の意味か