五島は、荏原電気鉄道を目黒蒲田電鉄と社名を改称し、設立からたったの半年後、大正12年3月11日、目黒~丸子(現・沼辺駅)間で開業する。
この五島の働きは正に電光石火の早業の如きであった。
この五島の働きは正に電光石火の早業の如きであった。
この時の車両数は64人乗が5両、運輸従業員は運転手16人、車掌16人、その他13人という僅かなものであったが、渋沢等の夢が五島に依って実現されたのである。

【目蒲線開通前夜の田園都市株式会社、目蒲電鉄重役一行(丸子(現沼部駅終点))。
左端は五島慶太、右から3人目は小林一三。 Wikipediaより】
しかし9月1日、全線開通に向けて工事中の所を天災が襲った。
関東大震災である。
関東大震災である。
目黒蒲田電鉄は10月1日の全線開通に向けて急ピッチで工事が進められていた所であり、その被害は甚大だった。
元々、多摩川沿いの土地で地盤も強く無く、更に工事途中と言う事もあり、所々でレールは曲り、切断され、土砂崩れや倒壊が起きた。
この一大事に専務だった五島は急遽現場へ馳せつけ、地下足袋で一線の指揮を執り、僅か1ヶ月遅れの11月1日には全線を開通させる。
目黒~丸子多摩川(現、東横線多摩川)の開通に続き、丸子多摩川~蒲田間も開通させた。
目黒~丸子多摩川(現、東横線多摩川)の開通に続き、丸子多摩川~蒲田間も開通させた。
山手線、更には東海道線に接続すると言う田園都市会社と武蔵電鉄の念願の事業を、五島は僅か2年間で完成させたのであった。
又、関東大震災は目黒蒲田電鉄にとって大吉と出た。
東京郊外への人口移動である。
東京は壊滅状態となった市内に対し、洗足や田園調布を始め、東京市郊外では建物が未だ密集していない事もあったが、住宅倒壊等の被害が殆ど無かった。
東京郊外への人口移動である。
東京は壊滅状態となった市内に対し、洗足や田園調布を始め、東京市郊外では建物が未だ密集していない事もあったが、住宅倒壊等の被害が殆ど無かった。
交通網も整備されていた事もあり、目黒蒲田電鉄沿線には瞬く間に都内からこの沿線に移注する者が激増したのである。
本当に全線開通と同時であった。
本当に全線開通と同時であった。
地盤の安定した郊外における街づくりの有効性が注目され、
「職場は東京に、住宅は郊外に」との職住分離の風潮が生まれ、本格的な電車通勤の時代が来る。
(次回は武蔵電鉄から東京横浜電鉄へです)
この記事は2014-02-06
yahooブログにて掲載していました。