targets of opportunity 2019/08/10撮影 鶴見線大川、機銃掃射痕。 | 湘南陽光電しゃ館 鉄道館

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本土空襲の証シリーズの最新版です!。

懸案だった「本土空襲の証」未取材懸案リストの中から三か所チョイスし、8/10に現地取材してきましたので、今日から三回にわたって掲載したいと思います。

まずは、鶴見線大川第五橋梁の機銃掃射痕、です。

8/10はまだ、おもっいきっり夏してまして、炎天下、取材してまいりました。

ちょうど訪れたのが土曜日でしたので、橋までの最短距離にある大川支線大川駅への列車は日昼皆無です。

なので、本線!?、武蔵白石駅から歩きます。

 

2019/08/10撮影 鶴見線武蔵白石駅舎

前身の鶴見臨港鉄道時代の私鉄駅の雰囲気を残す駅舎です。

昔は大川支線はこの武蔵白石駅から分岐していましたが、単行電車から20M級2/3両数の電車に乗り入れ列車が変更になって、あの小さなカーブホームが使用できなくなり、今は支線への乗り入れ列車は安善駅が乗換駅となっています。

でも歩くなら安善駅よりも断然、武蔵白石駅の方が近いです。

 

〃 鶴見線ホームと大川支線ホーム跡

現在の武蔵白石駅です。右奥にカーブしていくのが大川支線の線路です。グレーのキュービックボックスがあるあたりに急カーブした小さなホームがあり、茶色の旧国クモハが停車していました。

駅を出て右に少し浜川崎方向へ戻り、踏切を渡って真っ直ぐ海方向に400mくらい歩くと大川第五橋梁に到着です。

※地図座標 神奈川県 35.497865, 139.709727

 

〃 大川支線、大川第五橋梁

この鉄橋は鶴見線の前身、鶴見臨港鉄道が1926年/大正15年、大川支線の開通とともに架けた鉄橋で、戦時中の昭和18年、国策で戦時買収されて国有化されていますので鉄橋の架線建柱表示は「S18」年です。

 

〃 橋梁設置、架線建柱票

一見すると運河にかかる何の変哲もない臨港線の鉄橋ですが・・・。

並行する道路橋から大川側を丹念に見ていくと。

 

〃大川第五橋梁 弾痕①

こんなふうに鉄橋のサイドプレートに穴が開いているのが目に入ります。

 

〃大川第五橋梁 弾痕②

これが戦時中、アメリカの艦載機もしくは硫黄島から飛び立った米陸軍機から受けた機銃掃射痕です。

 

〃大川第五橋梁 弾痕③

機銃弾は12.7mmですが、10mm弱の鉄板などやすやすと貫いていて、御覧のように三重に重なった部分も貫通するくらいの威力があります。これが人体に命中したとしたら・・。

炸裂弾であれば一瞬にして血しぶきとなり身体消滅、徹甲弾であれば人体を突き抜けて大穴が開きます。

最近の国産大戦映画でよく、戦艦の機銃座に敵戦闘機から機銃掃射がかけられ、砲座の機銃手が機銃の銃握をつかんだ腕だけになってしまうシーンがありますが正にアレです。事実、宇都宮空襲でグラマンの機銃掃射を受けた農婦はお腹に命中した弾丸に大穴を開けられて絶命したそうです。

 

〃大川第五橋梁 弾痕全景パノラマ

※写真をクリックして大きく拡大してみると見やすくなります。

 

この鉄橋の機銃掃射の跡をパノラマ写真にしてみました。ソフトがうまく動かなくて見づらくて恐縮です。

数えてみると主に京浜運河側のサイドプレートに118発の弾痕があります。レールなどに跳ね返って再命中した跳弾痕もあるとは思いますが。

これが米陸軍の戦闘機P51ですと、12.7mm機銃6門の合計弾丸最大搭載量が1880発ですから1/16を消費して機銃掃射している計算になります。

勿論、1機だけで攻撃したわけではないでしょうが、執拗に機銃掃射を繰り返したことがわかります。

 

〃大川第五橋梁 弾痕④

主な弾丸はプレートの京浜運河側から撃ち込まれているようですが、入射口側はこういうふうな弾痕になるようです。射出口は鉄板がささくれ立つので、危ないので後にサンダー等で削って平らに修正したものと思われます。

機銃弾だけで薄いとはいえ、鋼鉄製の鉄橋を落とそうとした、とは考えられませんので、多分、戦闘機もしくは艦載機のパイロットは鉄橋の下に隠れようとした船や人を見つけて機銃掃射をかけたものと思われます。

ただ、この大川支線の終点大川の先は当時関東でも最大規模の火力発電所があったはずで、この鉄橋を落としてしまえば、パイロットのそれなりの戦果となったはずで、当時導入されつつあった5インチロケット弾などで攻撃されて命中していれば、落橋していた可能性もありますね。

 

大川橋梁の弾痕は高尾駅や二宮駅、国道駅に比べてあまりメディアでも目につきにくい存在ですが、実は一番わかりやすく鮮明な弾痕現物だと小生は思います。

これからも、「本土空襲の生き証人」として、しっかり保存していかれることを望みたいと思います。

 

さらにおまけになりますが、ちょっと残念な情報も一つ。

最近、とみに極希少価値となりつつある現役の「昇降式の踏切」として有名だった、大川支線の「日本鋳造踏切」ですが、8/10に現地を通りましたら。自動踏切化されており、遮断ワイヤーの昇降塔だけが残っておりました。

 

2019/08/10撮影 鶴見線大川支線 日本鋳造踏切

ここが無くなると昇降式踏切は、もう日本全国で数個、ひょっとしたら皆無になってしまったかもしれません。工場正門に位置して車両の出入りも多いでしょうから、時代の流れで仕方がないのかもしれませんが、古き良き時代の踏切を現代に伝える景色でしたから、返す返すも残念です。

 

次回はこれもマイナーな存在である、根府川駅の機銃掃射痕をお伝えします。