ここで、重要なる人物である五島慶太を紹介する。
五島は、1882(明治15)年、現在の長野県上田市の郊外に、農業を営む小林菊右衛門の次男として生まれる。
旧制松本中学を経て、1906(明治39)年に東京高等師範学校英文科を卒業。
五島は、1882(明治15)年、現在の長野県上田市の郊外に、農業を営む小林菊右衛門の次男として生まれる。
旧制松本中学を経て、1906(明治39)年に東京高等師範学校英文科を卒業。
【五島慶太 1882-1959 Wikipediaより】
この時、五島は教師を目指す。
「将来先生になるという事も面白い仕事だと思ったものだ。
先生がもし嫌になったら、また他の仕事をやってもいいじゃないか」と考えた。
「将来先生になるという事も面白い仕事だと思ったものだ。
先生がもし嫌になったら、また他の仕事をやってもいいじゃないか」と考えた。
そして、三重県立四日市商業学校に英語の教師として赴任する。
しかし五島は着任早々、
「校長を始め、同僚が如何にも低調でバカに見え、到底共に仕事をして行くに足りない者ばかり」と感じ、早々に教員生活に見切りを付け翌年再び上京。
東京帝国大学法科大学政治学科に入学する。
この間、家庭教師で学費と生活費を稼ぐ。
この間、家庭教師で学費と生活費を稼ぐ。
1911(明治44)年、卒業と共に農商務省に入省する。
翌年には結婚し、妻の実家の廃絶家を再興したいとの要望を入れ五島と改姓した。
しかし、全てが緊縮政策に変わってしまい、行政整理の為、五島が期待していた工場法の施行は三年間延期と言う事になり、鉄道省の前身、鉄道院に移る。
翌年には結婚し、妻の実家の廃絶家を再興したいとの要望を入れ五島と改姓した。
しかし、全てが緊縮政策に変わってしまい、行政整理の為、五島が期待していた工場法の施行は三年間延期と言う事になり、鉄道省の前身、鉄道院に移る。
五島は当時、高等官七等の為、課長心得と言う役職であった。
五島はこの余計な「心得」がどうしても気に食わない。
だから、稟議書に「課長心得」とあるのを、一々認印を押し、「心得」の二字を消して上に回した。 果たして石丸重美次官がこれに気付き、「それならば」と、言う事で五島が忌々しく思っている「心得」を消してくれたので本当の課長になれた。
五島はこの余計な「心得」がどうしても気に食わない。
だから、稟議書に「課長心得」とあるのを、一々認印を押し、「心得」の二字を消して上に回した。
こうすれば五島が「心得」が気に入らないでいると言う事が、次官あたりに分るであろうと思ってやった事であった。
しかし五島はここでも、「役人をしている間は、これは偉い人だ、この人の言うことなら何でも聞かなくてはいけないと思った人は一人も居なかった」と・・・
考えてみれば、人より5年も遅れての官庁入りである。
38歳でようやく総務課長。
これ以後頑張った所で先行きは知れている。
38歳でようやく総務課長。
これ以後頑張った所で先行きは知れている。
「そもそも官吏と言うものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。
若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、如何にもつまらないものだ」
と、早々に官僚業務にも見切りをつけていた。
若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、如何にもつまらないものだ」
と、早々に官僚業務にも見切りをつけていた。
(次回は武蔵電気鉄道です)
この記事は2014-01-18
yahooブログにて掲載していました。