DD54特急《出雲》の運用時期を考える | 今日も まっ晴れ! 鉄道回顧録

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近年、鉄道雑誌やディーゼル機関車関連サイトで、ディーゼル機関車DD54が寝台特急《出雲》を牽引した期間が昭和47年(1972年)3月から昭和49年ごろまでと記されている記事を散見します。此の昭和49年ごろの “ごろ” と言うところが微妙ですが、昭和48年8月の夏休みに山陰本線西部へ撮影に行った際に、既にDD51が牽く特急《出雲》を実際に写真に撮っている私にとっては、とても違和感を覚える記事です。
 
  上は昭和48年3月 黒松駅下り方で撮った写真です(無断転載厳禁!)
 上↑のDD5435の写真は「無断転載禁止」であるとお願いして無断掲載されている画像をいくら削除して貰っても、必ず無断で御自分のブログやサイトにコピーをして貼り付ける方が出て来ます。改めて↑のDD5436の写真を含め当ブログの画像は一切転載厳禁!であることを御理解ください!
 
そして昭和48年7月に臨海学校へ行った折り、早朝に東浜付近を走行するDD54《出雲》を見て以降、DD54牽引の特急《出雲》を見る事はありませんでした。
 

昭和47年春、山陰本線西部は

新設特急《やくも》や格上げされた《出雲》に湧いていました。

 
昭和48年の夏には、下の写真のようにヘッドマークも着けないDD51が《出雲》を牽いて目の前を通過して行きました。
山陰本線 小田-田儀 1973年8月
 
下の写真は上の数日後、田儀駅を通過するDD51837牽引《出雲》です。
調べてみると撮影当時DD51837は吹田第一機関区に所属のカマのようです。(他のブログでも昭和48年8月25日にDD51に牽かれる特急《出雲》の写真を見た事がありますが、こちらは1037号機で当時の所属区は亀山です。)
 
DD54が全機引退間際に発売された鉄道ファン1977年5月号にも以下の写真と、その写真の説明書き(拡大)が載っています。
 
↓上の左下に書かれている説明文を拡大したものです。
上記の記載に、撮影日は1973年8月20日と記され、DD54が特急《出雲》から運用を離脱したのが1973年からであると明確に記述されています。
これら2つの記事が2つとも誤植であるとは考えにくく、また当該“鉄道ファン”が発行されたのが1977年と特急《出雲》からDD54が運用離脱した時期が直近である事から考えても(30年~40年後に出版された今の鉄道雑誌に比べると)かなり信憑性があるように思われます。
 
強い寒の戻りで吹雪となった山陰海岸を行く上り《出雲》
山陰本線 仁万-五十猛 1972年4月1日
 
 実際インターネットなどでDD54《出雲》の写真を探しても昭和48年後半以降の写真は見あたりません。 では近年、どうしてDD54が特急《出雲》を牽引したのは昭和49年ごろまでと言うのが定説のようになってしまっているのか?
 
 下の記事は、前述の鉄道ファン1977年5月号〈DD54投入と無煙化の足跡〉の記事P53の切り抜きです。
 上記の記事のように昭和47年10月には既に米子区のDD54=3両が福知山区に転属しています。また昭和48年3月までに新見機関区へ27両ものDD51が投入され、そのタイミングで性能的に安定した新見区のDD51を使って米子以西の特急《出雲》仕業にあたったのではないか?と考えられます。(嘗て新見区のD51が山陰本線の貨物列車を牽引しているのを見たことがあります)
 そして《出雲》仕様のDD54達は記事のように『米子以西の無煙化用に振り向けられた』のです。

 

 事実、昭和47年10月の改正で824レ・831レ、833レ(後づけ回送)は無煙化され、C57【浜田】の出雲市-浜田間に残った唯一の仕業は544レの片道だけで、前日に544レで浜田から米子に行ったC57は出雲市から単機で浜田まで帰るようになりました。

単9561レの C57 5
山陰本線 小田-田儀 1973年8月
 
単9561レの C57 76
山陰本線 小田-田儀 1973年8月
 
《出雲》仕様のDD54 34牽引のローカル列車
山陰本線 湯里-温泉津 1973年3月
 
 DD54が現役の頃に出版された鉄道雑誌では昭和48年から特急《出雲》牽引機がDD54からDD51に変更されたと明確に書かれているのに、引退から30年も40年も経った近年、こぞって鉄道雑誌など専門誌のほうでは、どうしてDD54《出雲》は昭和49年ごろまでと通説のようになってしまったのか?
 
 米子区にDD51が大量投入されたのが昭和49年1~2月、米子区のDD54が全機 福知山区へ転属したのが昭和49年4月、と言う車籍履歴からだけで考えられDD54が特急《出雲》牽引から退いたのを昭和49年ごろと、資料を見ただけの机上の推測だけで記述されているのではないか?と思うのです。 実際に1973年8月の夏休みに特急《出雲》は毎日DD51に牽かれていたので、当時の現地の体験談でないことだけは明らかです。
 ただ昭和48年夏ごろから全区間がDD51に替わった訳ではなく、京都-米子間はDD54で運転されていたかもしれません。
 

  以上のような内容の記事を投稿すると、当時の配置表や運用表などの資料至上主義のような方から「確かにDD54は昭和49年2月ごろまで《出雲》の運用に就いていた」と言った主旨のコメントを難しい言葉を並べて論破しようとされる方が居られますが、これは正しく机上の空論にしか過ぎず、私は当時の現場で現実に見た・撮った事を記事にしているだけです。 このように当時の資料だけしか信じられない様な方たちに、1977年5月号の「鉄道ファン」誌の記事の事や、1973年8月に実際撮られたDD51 837やDD51 1037などが《出雲》を牽く写真・ネット上で1973年夏以降に撮られたDD54《出雲》の写真が出て来ない事などについて いったいどう考えて居られるのか?一度聞いてみたいものですね。

 

 以上はYahoo!ブログにアップした同記事を再編したものです。 そのYahoo!ブログ時代にコメント欄で、dd54**zumo様から大変貴重な資料を戴いたので、教えて戴いた当時の特急《出雲》牽引機の形式および機番を同記事の最後に付け加えさせて頂きます。

 

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 S48.4.30 DD51 776
S48.5.3 DD54 37 HM付き
S48.6.3 DD54 33 HM付き
S48.7.6 DD54 36 HM付き
S48.8.16 DD51 1038 以降マーク無し
S48.8.17 DD51 1039
S48.9.15 DD51 1038
S48.9.23 DD51 1038
S48.10.10 DD54 XX
S48.11.3 DD54 33
S49.12.29 DD51 605

  • 追加
    S48.3.26 DD54 35 マーク無し
    S48.3.29 DD54 35 HM付き
    S48.3.31 DD54 33 HM付き
    訂正
    S48.12.29 DD51 605

    出雲号のマークはS47の8月頃からすでに付いたり付かなかったりの状態でした。新製直後の機関車(DD54)が廃車になるはずはないと油断しきっていたので、S48.4.30のDD51などは「珍しい物が撮れた」と喜んでいた有様でした。半年先のことでも判っていればと後悔しきりです。 

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このような大変貴重な記録を教えて戴いたdd54**zumo様を始め、Yahoo!ブログのほうではDD54《出雲》の貴重な情報をお寄せ下さいました皆様方には心より御礼申し上げます。 本当にありがとうございました。

 

 

下記のYouTubeにDD54の動画を再編集してアップしています。

https://www.youtube.com/watch?v=gP2CVJACfWc&t=19s

「出雲」の動画はありませんが併せて御笑覧戴ければ幸いです。