梅小路公園の京都市電 ー③
遅く遅く遅くなりましたが、梅小路公園に静態保存されている京都市電・・・・の、最終回です。
撮る時は楽しくて、ついついパシャパシャと撮ってしまいますが、記事にするとなるとなかなかね(笑)
冒頭の写真は梅小路ではなく、広島を走る旧京都市電の1900型です。
広島カープ優勝マークを取り付けている時の写真ですが、参考までに?載せてみました。
で、続いての写真からが本題です。
まずは1600型です。
この車両は売店や喫茶ではなく、休憩所として開放されています。
客室内とM台のマスコンとブレーキを撮ってみました。
そして次の写真は、890型です。
形式は違いますけど、こうして並んでいる姿を写真にしてみると、一昔前の広島・宇品港を思い出す雰囲気です。
今、全国的に外国からの観光客が増えて、そのキャパシティのみならず、交通手段も問題となっています。
広島は核攻撃を受けて都市消失となり、戦後の再開発において市街地と旧市内の主要道路を、昭和20年代では考えられなかったほどの道路幅を持って、都市整備されました。
それでも昭和40年代・50年代には高度成長とモーターリゼーションで、車の交通量が捌けない状態でした。
路面電車廃止や地下鉄構想があったのも事実です。
しかし21世紀の現在、並走する広島電鉄とJR西日本がしっかりと役割分担をして、増加する内外の観光客に解りやすく使い勝手の良い交通形態として機能しています。
都市の成り立ちから道路幅も違うし、訪問観光客の人数も違うので、一概には言えないのですけど。
自分が京都へ行って思うことは、今現在の京都に市電が走っていたら、地元の方の生活をそれほど圧迫せずに、もっとスムーズな古都観光ができるのになぁ~と思ったりします。
と、話が逸れてしまいましたが890型も休憩所として開放されているので、車内とM台を撮ってみました。
そして梅小路公園の入口から少し歩いた場所に展示してある2000型。
この車両は観光案内所になっていました。
ラストの2枚は再び広島で、いまだに現役で頑張る1900型で、この3回に別けてUPした今回の記事を終わります。
時は平安の世、政権中枢の独占を狙う藤原一族の策略によって、藤原氏ではない者の大臣職や高級官僚を、策略によって排除されつつありました。
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近くに雷、落ちたことある?
時は平安の世、政権中枢の独占を狙う藤原一族の策略によって、藤原氏ではない者の大臣職や高級官僚を、策略によって排除されつつありました。
その中に菅原道真(すがわらのみちざね)公もいました。
彼は非常に優秀な官僚でしたが、藤原氏の謀略によって、無実の罪によって九州は太宰府へ左遷されました。
肩書きは長官でしたが実権は無く、その全ては副長官が握っていました。
道真は失意の内に亡くなり、その後、京の都に天災や厄害が起り始めます。
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そして930(延長8)年の6月26日、清涼殿に落雷があり、大納言で参議だった藤原清貫(ふじわらのきよつら)公が亡くなる事件が発生しました。
この落雷は菅原道真公のたたりだとされ、冤罪は取り消されて神格が与えられ、道真公は名誉を回復しました。
神格は雷の神「天神」と同一視されることとなり、空満大自在天神と神名が与えられました。
雷記念日は天神さまである菅原道真公の縁の日として制定されましたが、実は藤原清貫公の命日でもあります。
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ゑ |
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