基本は日帰り・ご近所さんへの旅鉄訪問記

確認より発見が目標の旅鉄と気まぐれ街歩き薄口日記の2本立てですよ〜

函館が北海道の起点だったころ

こんばんは。仕事が詰まって新作がなかなか書けないでいます。素材はあるのに。
しかも週末は雨ばかりで、その素材集めにも出られず。なんか家にいると休みが終わるのが早いんですよね。


今回は懐かしの旅もの。
古い写真はアルバムからの複写なので写真がボケボケ。

シャープネスを強くかけたり、色味を調節してとりあえず見れる写真いしました。


まだ瀬戸大橋や青函トンネルが開通する前。
初めての北海道も四国も船で渡りました。

連絡船というものに乗ったことがある最後の世代かもしれません。


その時の函館駅

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今はどうかわかりませんが、大きくカーブしたホームが特徴でした。


列車は札幌行き急行ニセコ

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先に出る室蘭本線回りの特急北斗ではなくニセコを選んだのは、昼行急行なのに客車列車というめずらしさ。

なぜかというと、この列車、本州からの郵便、荷物車を連結してるため。
しかも長万部から小樽までの山岳区間は、DD51重連という異色の列車だからです。


客車は先に入線していて、連絡船で航送されてきた郵便・荷物車を後ろに連結しての発車でした。

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北海道用の14系座席車です。

 

写真の右手に連絡船の桟橋があり、乗ってきた船が停泊していました。
駅の背景は函館山です。


連絡船が函館に着いて下船してホームへ向かう時に感じる、本州とは違ったカラッとした高原のような涼しい風を感じた時、「おお〜、北海道にきた〜」って感じになりました。


すでに千歳ー羽田館は圧倒的に早い空の便も
多数ありましたが、まだ非常に高価でした。今のJALとかの割引なしでの往復くらいの値段でした。

 

ちなみに北海道新海戦の「新函館北斗」は、この当時は人も住まない山の中でした。


下りの優等列車は、その本線の方を通らないのが多かったです。
おそらく今は貨物列車しか走ってないバイパス「藤城線」を走ってました。

 


今回も読んでいただきありがとうございます。