横川貨物線と本川雁木 ー② | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

横川貨物線と本川雁木 ー②

ー鉄道から見る郷土史ー

太田川放水路が整備される以前、横川から下流に向けて低地が広がっており、台風や長雨で水没する地区が広大だったため、太田川放水路が整備されましたが。

その堤防工事において山陽本線を嵩上げしたのが、今から約60年前です。

嵩上げにおいて、山陽鉄道が築いた築堤の基礎を土台としているため、西広島側の一部を除いてほぼ鉄道用地は変わらず。


横川駅構内は山陽本線ホームの位置はあまり変わらないのですが、今の可部線ホーム辺りから山陽本線までの三角地帯には貨物ヤードがありました。

その線路が束なって山陽本線と合流し、三篠町側には貨物操車線、そして山陽本線の上下線があって、市街地側へ本川河岸貨物積卸場への貨物線があり、横川のガードがまだ踏切だった当時、複々線の様相でした。

が、それでも水没多発地区であったため、線路は1m程度の築堤となっていて、踏切は"カマボコ形"を通り越して三篠町側はかなりの"反橋"に近い形態だったようです。


貨物線は、石油配給統制倉庫や誉航空軽合金などの施設や崇徳中学校武道場を抜けて木工施設や材木関連施設の町へ至り、終点の積卸場へ着きます。

広島平和記念資料館のデータベースにある写真や、三篠町郷土資料の写真を見ると、貨物線は単線で大きな円を描いて本線から離れてすぐ、分岐器(ポイント)が写っています。

この貨物線の資料は乏しいのですが、山陽本線から反れてすぐにあったポイントは、石油配給統制倉庫へ搬入の引込線だったようです。


さて、話は少し逸れるのですが、世界どこでもその町や都市を代表する建物は、必ずメイン道路に正面玄関は向いています。

昔でも現在でも、必ず裏路地や横路地を向いて建つことはありません。

そこで冷静に一度考えてみて頂きたいのですが、原爆ドームはなぜメインストリートではなく、川を向いて建っているのでしょう。



これは昔の記事でも一度UPしているのですが、広島市の東西のメインストリートは道路でしが、南北のメインストリートは河川だったためです。

建物の正面玄関前に川へ降りる石階段が建設されているのは、船舶の往来による接岸駅として設けられたものでした。

広島市内の太田川水系河川には、至る所にこの石階段が設置されており、この船舶用の接岸駅を雁木(がんぎ)と呼びます。



今回散策した貨物線は、横川駅から本川の河岸へと続いていますが、この貨物積卸場があった雁木は、楠木の大雁木と呼ばれており、本川雁木の中でも最大の規模となっています。

まずは楠木雁木の傍らに設置されている、国土交通省太田川工事事務所の説明書きの文面を転記してみます。

【太田川流域は、山がちで平地が少なく陸上交通の発達しにくい地形であったため、近世を中心に大量輸送機関として、舟運が発達しました。



この捕木町を含むデルタ部の河岸は、江戸時代から昭和の初めにかけて太田川の舟運で特に栄えた地域で、オオブネや、肥船、広島湾岸部域から小さな機船も部入り、他方、筏流しも往来し、当地でも、荷揚げ作業をする人連でにぎわいを見せました。

当時の主な荷物は、薪炭、鉄、紙、枕材木(明治以降)等で、荷揚げ場は雁木と呼ぱれ、船着き場に階段をつけた桟橋が利用されていました。

雁木は、現在でも太田川のデルタでわずかに見ることができます。



なかでも、明治の中頃になって改修された楠木 の大雁木はとりわけ大きく、戦前までは横川駅から引込み線も敷がれ、舟運の一中心であった当時を物語っています】

簡潔に解説している説明書きなので重複する内容になるのですが、藩政時代の広島における物資輸送は、河川を利用した舟による運輸が流通の大動脈で、安佐郡や山県郡など現在の県北方面からや、隣県・大阪・九州からの海運の貨荷物で賑わっていました。

海運船は川の奥地まで進入するのが困難だったため、大型船においては広島湾の貨物中継港で振り分けが行われ、目的地別に舟が往来していました。



毛利氏時代の海岸線は現在の平和大通り前後で、大手町にある白神社は舟の往来を見守る、岬の御社でした。

そして江戸時代280年間から明治時代・大正時代・昭和時代と時代が下るに従って、海岸線は現在の位置まで下りました。

雁木で荷揚げされた貨荷物は、広島城をはじめそれぞれの施設へ搬入されたり、物流センターとして機能していた場所では、貨荷物の振り分けが行われ、目的地へ向けて出荷されました。



1897(明治30)年になると山陽鉄道が徳山駅まで開業し、翌年には横川駅から楠木雁木まで支線が敷設され、荷馬車や貨物列車に積まれ各地へ送られるようになりました。

現在の楠木雁木は当時より縮小して保存されていますが、現在でも漁船や水上タクシーの他、河川清掃事業のゴミ集積所として、現役で利用されています。

江戸時代にはこの雁木から少しの三篠橋東詰付近に材木置場があり、筏として上流から下って来た材木をここで荷揚げしていました。



現在は市営の高層アバートが建ち並んでいますが、その物流の多さから1726(享保10)年に"御材木奉行所"も置かれました。

そして楠木側には"材木蔵"が設けられ、品質検査を受けた材木はこちら側に集められていました。

雁木は河川の港なのでほぼ24時間体制で稼動しており、常夜灯も整備されていました。



1975(昭和50)年から可部線・三段峡駅前で静態保存され、2003(平成15)年からはイオンモール広島府中で展示されているC11ー189号機は、一生を九州で過ごした蒸気機関車ですが。

C11は広島所属機も多数存在し、呉線・芸備線・可部線で活躍しました。

この横川駅からの貨物線もC11で運転されていたようですが、大正期には変り種のC13(2920形)も1機投入されていたらしいです。





ラストのこの4枚は、3つに分断されてしまっている雁木の両サイドに残る、梁渠(ドック)です。

太田川水系河川に残る雁木の内、ドックが保存されているのも楠木雁木の特長です。

横川駅から近いので、歩く速度にもよりますが5~10分程度で行けるので、一度訪れてみられるのもお薦めです。

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ブログスタンプとは話しが違うのですが。

ブログジャンルを変えてみました。

これまで【カメラ・風景写真】に参加していたのですけど、以前は他に【カメラ・ポートレート】しかなくて、う~ん・・・・と思いながら、風景写真を選んだ訳で。

最近【カメラ・写真】というのができたみたいなので、こちらにしてみました。

だって、初期の頃から写真の絵日記風ではあったけど、風景写真ではないものね。

それと、しばらく更新が止まっていましたけど。

何かね、のんびりしたかったの。

で、郷土史の門を開くと、元々どっぷり浸かっていた世界だし、楽しくて散策や関連書籍を漁って没頭してました。

当面、更新頻度は落ちると思いますが、飽きないで下さいませ。

宜しくお願い致します。

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