惜別 115系 広島の残像 -④
今年の広島の桜は3月22日に開花宣言が出されましたが、115系は一足早くダイヤ改正にて全廃していて、昨年の写真が最後になりました。
が、ソメイヨシノは咲いていなくとも、早咲き桜は所々で満開を迎えていて、鷺森神社の桜と併せて撮ってみました。
この桜だけでは無いのですが、前日の"春の嵐"によって、風雨に花をだいぶ散らされてしまったのが、少し残念でもあるんですけど。
鷺森神社は、当家の御先祖・市杵嶋姫(いちきしまひめ)命を主祭神として祀られており、古来から"弁天さん"と呼ばれて親しまれています。
鳥居は少し傾いているのですが、これは1945(昭和20)年8月6日にアメリカによって行われた人類史上初の核攻撃の際、その原爆の爆風によるものです。
115系の広島全廃の記事のラストは、この鷺森神社の写真で飾りたいと思います。
115系電車の顔立ちは、極典的な国鉄顔なのは周知の事実ですが、山陽新幹線が開業する以前は、ここを181系や481系に混ざって153系や451系も走っていました。
上品な特急電車はそのまんま特別な存在でしたが、小豆色とクリーム色の451系は子ども心に気になる存在でした。
昭和40年代と言えば、遊ぶと言っても今のように様々なものがある訳でもなく、定番としてこの神社で遊んでいました。
草津の連続急カーブには、今でこそ全ての踏切に警報器と遮断機が設置されていますが、当時は草津踏切と仙洞(参道)踏切の間の小踏切には設置されていなくて。
下り列車は草津踏切を、上り列車は仙道踏切を通過するタイミングで、警笛を鳴らしっ放しで走り抜けていました。
電車はこの頃、少し怖い存在(警笛が大きいから)でもありましたが、鳴らして走り抜けていたのは、特急列車と急行列車だけだったように覚えています。
そんな怖い思いもありながら、451系の独特な空気感は好きで、よく見とれていました。
山陽新幹線が開業した1975(昭和50)年以降、使用目的が違う故にそのボディは構造が違うものの、同じ顔立ちの115系は慣れ親しんだ安心感のある電車でした。
1978(昭和53)年は中学生でしたが、空前の鉄道ブームが起り、高校生の頃は電車通学で115系のお世話になり、社会人になってからも、一時期は電車通勤だった頃もありました。
115系の最後に、鷺森神社では記憶に残る451系を、実際の写真として可能な限り再現してみました。
他人から見ると判らない視覚ではありますが、私的には充分に頭の中の映像を写真化できました。
そして115系も、新たに思い出の車両となりました。
さすがに小学校低学年の頃に、この場所で451系どころか山陽特急も急行も撮ってはいません。
けど、同じように記憶の郷愁は続いていたので、最後のブルートレインとなった特急富士・はやぶさを撮っていたりします。
そして、定期営業列車において、国鉄型電車をもう見ることはありません。
子どもの頃の思い出は、完全に記憶の彼方へと過ぎ去ってしまった、2019(平成31)年のダイヤ改正でした、
最後の3枚は、境内から撮ったL-17編成です。
草津踏切を通過して、境内横を通り過ぎ、仙洞(参道)踏切へさしかかる115系です。
少し前の記事で述べましたが、広島の115系を中心とした鉄道ブログと化したのは、RedWing-227系のデビュー後からです。
新幹線や貨物列車など、鉄道記事もUPはしていましたが、比率は3:3:3:1で、他のテーマとのバランスは近衝比でした。
4月・・・・新年度からは、決して鉄道記事が無くなる訳ではありませんが、自転車の記事なども復活して増えて来る予定です。
今日の記事は、思い出語り傾向が強く出てしまって、文脈は少し乱れ気味ですが、これも今の私と言うことです。
最後に115系L-14編成からメッセージがあるようです。
『わっ・・・・私をキモいと言わないでっ!』
でしょうねぇ。
悪いのは筆者の私ですから。
・ | ・ |
ゑ |
>ブログトップページ<
撮影地=広島市西区,草津東,鷺森神社