旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 常に目立つことなく隠れた力持ち【11】

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 そのような状況は長くは続きませんでした。

 昭和50年代に入ると、国鉄ダイヤ改正のたびに貨物輸送の合理化を進めようとします。

 操車場での貨車の仕訳を、可能な限り自動化してスピードを上げようとしました。その一つが、前にもお話しした武蔵野線の武蔵野操車場でした。そのために、DE11形の1000番代の数両は、無線による自動操縦装置を取り付けました。

 しかし、こうした施策も奏功することはなく、もはや国鉄の貨物輸送は致命的なまでに悪化していました。

 こうして、国鉄の分割民営化が現実味を帯び始めた頃、さらなる合理化をするために、大規模なダイヤ改正1984年におこなわれます。


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 「59.2」または「ゴー・キューニ」と呼ばれるダイヤ改正です。このダイヤ改正では、貨物列車の輸送形態が大幅に変わり、鉄道開業以来続けられてきヤード継走方式を廃止しました。
 この施策で、全国にあった貨車操車場はすべて機能を停止して廃止されてしまいます。筆者が住んでいたところの近所にあった新鶴見操車場もこのダイヤ改正で廃止となり、つい昨日までDE11形が行ったり来たりして貨車の入換をしていたのがパタッとなくなり、貨車の連結する音やDE11形の上げるエンジン音も消えて、静けさだけが支配するようになったのを思い起こします。

 操車場での重入換用機関車として、その仕事に特化した性能を与えられたDE11形は、操車場が廃止になったことで多くが仕事を失ってしまいました。ついこの間まで、操車場に到着した貨物列車を押し上げたり、仕分けが終わった貨車を引っ張り出したりしていたのが、たった一日を境にして過酷な重労働とはいえ慣れ親しんだ仕事がなくなってしまったのです。

 仕事を失ったDE11形たちは、その多くが機関区などの運転区所で留置される日々が続きました。見た目も同じ兄貴分であるDE10形は、その多くが仕事を失わずダイヤ改正後も活躍するのを横目に、DE11形はといえばくる日もくる日も広い構内の端の方に留め置かれ、時間が流れていくのをただひたすら待ち続けるようになっていきました。

 中にはこのできごとが決定打となり、余剰車両として扱われてしまい、廃車の手続がとられた車両もいました。そして、たまに仕事があればいい方でしたが、その仕事も余剰として廃車になった機関車や貨車、そして老朽化した客車たちを、操車場構内にある旧貨車区へと運ぶというもの。
 彼らは仕事も車籍も失い、長らく機能を停止した操車場に放置され続け、解体の順番を待っていたのでした。そして、その順番が来たので、かつての仲間であったDE11形がまるで黄泉の世界に迎えに来た死神のごとく、解体場である旧貨車区へと運ぶというものでした。

 私も当時習っていた剣道の稽古に行くために、機能を停止した操車場を跨線橋で超えていくことが多かったですが、鹿島田跨線橋の付近にある線路に色褪せたEF62形電気機関車やワキ10000形高速有蓋貨車、さらにはなかなかお目にかかることができなかった20系客車のナハネ20形など、色とりどりの車両たちが留め置かれているのを見ました。
 そして、DE11形がやって来ては、彼らを1両、または数両といった単位で引っ張り出していき、二度と戻らない最後の旅立ちをする姿は、幼いながらも何ともいえぬ寂しさを感じたものでした。

 やがて大量の余剰車両の解体処分も進んでいくと、国鉄も最期の日が近づいていきました。1987年3月31日、国鉄は長い歴史に幕を下ろし、分割民営化がされて新会社へと移行していきます。