RedWing-227系 2019-② / 雪の日 | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

RedWing-227系 2019-② / 雪の日


RedWing-227系です。

いつもの様に115系の合間での撮影です。

まずは草津の連続カーブから。



227系を撮る時は、何も考えず、来たからシャッター切ってるって感じなんですけど。

考えて狙って撮った他の写真と、あんまり変わらないところが笑えてきてしまいます。

まぁ、同じ場所で撮るのだから、そんなものなんでしょうけどね。



ここは例の44年ぶりの定点撮影の、テスト撮影です。

と、こんな感じの写真ばかりの227系だったりします。

が、それも今のところカモ知れません?



さて、ここからは1月26日の雪が降った日です。

ここ数日、忙しくてダウンしてて、ブログの更新もせず、皆さまのブログへ訪問もできずにいましたので、雪の写真も旬を過ぎてしまいました。

が、その間には、とうとう・・・・って言うのかな、遂に決定しました。



1月20日のRedWing-227系 ー 2019-②の記事で、将来アストラムラインが完成したら、こののどかな西広島駅の景色も変わってしまうと言ったんですけど。

広島市はアストラムラインの延伸計画を巡り、現在の暫定終点となっている広域公園前駅からJR西広島駅までの西風新都線のルート案を固めました。

アストラムラインは広島アジア大会の開催に合わせて、1994年8月に本通駅~広域公園前駅の間が先行開業したまま、延伸工場は棚上げされたままになっていました。



25年間の凍結期間中、商工センターへの延伸や五日市への延伸など、計画は紆余曲折していました。

特に五日市は佐伯区や地元企業・商店街などから強い要望があり、将来の広島の経済発展には重要との認識から、本格的に調査が行われました。

また、サンフレッチェ広島のホームスタジアム建設に、西部埋立地への案もあったことから、商工センターへの延伸も根強くありました。



五日市駅はJR西日本と広島電鉄の、統合施設が完成しており、広範囲に点在する商業施設を結ぶことによって、その利便性は向上して経済効果は計り知れないものでしたが、用地買収や建設費などが現実的では無いことから、候補から外れて行きました。

また、サンフレッチェ広島のホームスタジアム建設は中区の中央公園と決まりましたが、それ以前に既に中央公園広場、旧市民球場跡地、広島みなと公園の3ヶ所に候補地が絞られたため、商工センターへの延伸そのものが必要なくなりました。

そこでアストラムライン建設当時の原案に戻り、西広島への延伸となりましたが、そのルートは見直しされ、五月が丘団地内に2駅、昨年開業した"ジ・アウトレット広島"の敷地内へ1駅、己斐へ西広島駅を含めて3駅が建設されることとなりました。



西風新都線は単線で建設され、各駅に行違い設備が設けられます。

アストラムラインの西広島駅は橋上駅舎とされ、山陽本線や宮島線・市内線との乗り換えがスムーズにできるよう、南北の連絡通路が整備されます。

2019・2020年度で環境影響評価と、年計画法や軌道法に基づく手続きが進められ、2021年度の事業着手を目指します。



こののどかな西広島駅の景色も、間もなく見納めになってしまうのは、一抹の寂しさを感じます。

さて、西広島駅での雪の写真ですが、115系や貨物列車も撮って既にUPしておりますけど、この227系の時が1番よく降りました。

西広島駅北側へ広がる貨物ヤード跡地も、アストラムライン開業の折りにはフル活用されて、利便性はかなり向上することでしょうね。


2月7日は北方領土の日。

日本とロシアの間で、平和条約締結に向けて協議が続いている現在ですが、そのためには北方領土問題の解決が不可避となっています。

1854(安政1)年12月21日(新暦1855年2月7日)に、日本幕府とロシア王室の間で"日露和親条約"が締結され、択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島からなる、4996k㎡が日本の領土となりました。

その後"日露通好条約"により、日本とロシアの国境が択捉島とウルップ島との間に確定されます。

"日露和親条約"以前は北方諸島の領有権を持つ国は無く、"日露通好条約"以前には日露間に国境がありませんでした。

1875(明治8)年の"樺太千島交換条約"が結ばれ、樺太(サハリン)全島を放棄する代わりに、千島列島全てが日本領となりました。

しかし1905(明治38)年の日露戦争に勝利した日本は"ポーツマス条約"の締結で、樺太(サハリン)の南半分を日本領としました。

それから46年間、北方4島と千島列島、南樺太は日本領として扱われていましたが、第二次世界大戦の敗戦により、1951(昭和26)年の"サンフランシスコ平和条約"で、日本が戦争によって取得した土地の権利等は、放棄することとなったのですが。


大戦当初、ドイツとソ連が共に占領していたポーランドにおいて、1941(昭和16)年6月22日に突如、ドイツがソ連に奇襲を仕掛けて侵攻し、独ソ開戦となったタイミングで、日本は満州とソ連の国境に先ず約300の各部隊を動員、続いて2個師団を動員し、陸軍の膨大な兵力と資材が集積させました。

この日本による軍事行動の結果、ソ連は首都モスクワにドイツ軍が迫っている時に、シベリアからの救援部隊をモスクワへ移送ができなかったため、"日ソ中立条約"は効力が「事実上」消滅したと宣言。

ドイツが降伏するとソ連は、対日参戦の準備を進め、アメリカが長崎へ2発目の核攻撃を行った1945(昭和20)年8月9日に、南樺太への侵攻を皮切りに満州への攻撃を開始しました。

8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、15日に終戦詔書が発布されましたが、ソ連は「日本政府の無条件降伏の宣言は政治的な意向でしかない」と表明し、第二次世界大戦終結後も、日本とソ連の間では戦争状態が継続されました。

9月2日には日本と連合国との間で降伏文書調印が行われましたが、その時も日ソ間では戦闘が続いていました。

日ソ間で戦闘行為が終結したのは、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日でした。

サンフランシスコ条約では、日本の固有の領土である北方4島(択捉、国後、色丹、歯舞=北方領土)は、その権利の返還の対象から外れていますが、ソ連は千島列島の一部であるとして北方領土を現在に到るまで、74年間占領し続けています。

北方領土の日は、日本政府が1981(昭和56)年に制定しました。


日露首脳による会談で、油断できないのはプーチン政権による歴史の歪曲です。

ロシアは、北方領土が『第二次大戦の結果としてロシア領になった』と主張し、北方四島に対する「ロシアの主権」を、まず認めなければその後の交渉にならないと言います。

ロシアは、1945(昭和20)年2月に行われた、米英ソ首脳による密約"ヤルタ協定"や、国連憲章の107条(旧敵国条項)が主張の根拠だとしていいますけど。

これらが領土問題の最終的処理を決めたものではありません。

安倍晋三首相は本日、東京で予定される「北方領土返還要求全国大会」で、この歴史の真実を毅然と訴えるべきでしょう。

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