キハ40系・山陽本線 2019 ー② | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

キハ40系・山陽本線 2019 ー②



115系を撮ると、急いでいない限り、そのまま約20分ほど待って、キハの回送を撮ります。

前回は草津踏切から参道踏切を抜ける、連続カーブをUPしたので。

今回は、それ以外での写真をUPします。



いつかの記事でも書きましたが、山陽本線を疾走する5両編成のキハは圧巻です。

普通列車・西広島 11:53発 岩国行きの後、貨物列車が下り、それに続けてこのキハが下るのですが。

すぐに普通列車・西広島 12:08発 大野浦行きが追いかけてくるので、エンジン全開で逃げます。



キハの前後の普通列車はRedWing-227系に変わって久しいのですが、1本前の普通列車・西広島 13:40発 岩国行きが115系です。

下り貨物列車は、下関・九州への列車ではないので、走らない日もあります。

そして、キハの5連ですが、希に6連だったり7連だったりします。



では、今回UPした写真ですが、冒頭の2枚は12月18日の撮影で、場所は東高須駅隣接の庚午踏切付近です。

続けての2枚は小雪の舞った12月29日の撮影で、場所は高須駅上りホームから。

そして、うってかわって天気が好い写真は、1月4日の撮影で、高須駅付近で高須駅側から撮りました。



そして日食のあった1月6日に、日高アパートをバックに撮った2枚と。

ラストは古江駅付近の哲学堂前での6両編成で、1月12日の撮影でした。

哲学堂前での115系は、また次回のUP予定だったりします。


1月24日は郵便制度施行記念日。

1871(明治4)年の今日、物流と金融そして通信の近代化をはかるため「郵便規則」が制定されました。

そして同年3月1日から、東京~京都~大阪間で郵便業務が開始されました。

日本での通信事業の礎は、飛鳥時代にまで遡り、都を中心に街道に駅が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗り継いで地方と都を結んでいました。

律令制が崩壊した際に駅制も廃れてしまいましたが、鎌倉幕府が成立すると、時代鎌倉飛脚・六波羅飛脚などが整備され、京都~鎌倉を最短72時間で結びました。

このような通信システムは公用でしたが、民間で事業化されて私的にも利用できるようになったのは江戸時代に入ってから。

マニ50-2257

飛脚制度は信書や金銭、為替、貨物などを輸送し、日本の構造を根底から変革させましたが、江戸~大阪間は一業者で輸送されるのに対して、九州や北陸・東北・蝦夷などに向けては複数業者の連携で運営されていました。

その結果、費用が高価な割に天候に左右されたり、業者間の連絡が円滑でない場合もあり、遅延や紛失なども発生していました。

日本が先進国への仲間入りするためには、この流通システムの近代化が必須でした。

そこで全国を網羅する物流と通信の一元システムを国営として整備することとし、逓信省が開設されました。

まずは東京~京都~大阪間で営業が開始されましたが、鉄道の開通によってその区間は速達性が上り、全国の鉄道網の延伸に伴って、郵便事業も発達していきました。

マニ502257

挿入の写真は"ユ"ではなく"ニ"なのが残念なところですが、JR西日本の広島運転所に保管(放置?)されているマニ50です。

さて、1月24日はもう1つ、法律扶助の日でもあります。

法律扶助制度を行っている法律扶助協会が1993(平成5)年に制定しました。

法律扶助とは、お金がないゆえに法律による保護を受けられない人に対する、社会的扶助のこと。

1952(昭和27)年の今日、日本弁護士連合会が法律扶助協会が設立し、この日を中心に全国の指定された弁護士事務所で、無料法律相談が実施されます。

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